つながる空 高く蒼い空。 中天を舞う鳥の姿を見つけて、すっとアメジストの瞳を細める。 遠い場所に思いを馳せるように、ここではないどこかを見つめる少年に、肩にのったメタリックグリーンの鳥、トリィがまるで不思議そうにしているかのように「トリィ?」と首を傾げた。 こちらの感情が分かるとは思えないのに、昔からのクセで大丈夫だよ、と話しかけてしまう。 しかし自分に応じるかのようにトリィはもうひとつ鳴いて羽ばたいた。 そんな姿にふっと笑みをこぼして、また空を見上げる。 今日も空は蒼い。 「よう、キラ」 「トール、遅いよ」 「悪い悪い。サイたちは現地集合だったっけ?」 「うん。あれ?ミリィは」 「サークルのメンバーで集まりがあるらしくってさ、そっち行ってる。そろそろ終わる時間だと思うけど」 同じゼミに通うトールはとても気さくで、キラがいま一番親しくしている友人だ。良く言えば大らか悪く言うと大雑把。 しかしナチュラルの中で過ごしているキラは、コーディネイターだからと自分を敬遠しない彼にとても助けられている。それはトールのガールフレンドである少女にも言えることで。 「あ、ミリィ!」 「トール、まだこんな所にいたの?」 エレカに乗るために歩いてきたキラは、同じようにしてエレカを待つミリアリアに気付いた。隣を歩いていたトールも笑顔で声をかけている。 自分たち(主にトール)に気付いたミリィは、自分よりも早く行っているはずのトールがまだこの辺りをウロウロしていたことに呆れているようだ。 「もう、ちょっとはしゃきっとしなさいよね」 「いーだろ、まだ集合時間まであるんだし」 「トールはルーズすぎるの!」 互いにそうしているのが本当に自然で、素敵なカップルだなとキラの顔が綻ぶ。 可愛らしい顔を不満気に膨らませながらも、その瞳には優しい色が灯っているミリアリア。小言にうるさいなぁと拗ねた表情を浮かべているのに、どこか嬉しそうなトール。 「キラも何か言ってくれよー」 「ごめん、トール。何も言えない」 「友達を見捨てるのかー!」 「キラが正しいのよ」 「ミリアリア!」 遠くから軽やかな声が聞こえてきて、キラはどきりとした。 声に振り返ると、ミリアリアに向けて手を振っている少女がいる。燃えるような赤い髪を揺らして、大輪の花のように笑顔を輝かせているのはフレイ・アルスターだ。 「どうしたのフレイー?」 「明日の集合時間、一時間早まったから!」 「わかった、ありがとー」 仕事は終わり、とばかりににこりと微笑む少女にキラの胸はまたひとつ高鳴る。 フレイを待っていた他の友人の少女たちと共に、鮮やかな花は去っていってしまった。 「なんだミリィ、明日も集まりあんの?」 「そ。今日じゃ話がまとまらなかったのよ、もう大変」 「面倒そうだな。な、キラ」 「………え、あ、うん」 なにぼけっとしてんだよ、と小突かれてそんなことないよと否定する。 しかしトールは意地の悪い笑みを浮かべて、首に腕を回してきた。この顔は自分をからかおうとしている時のもので。 「何だ何だ?もしかして惚れたか、フレイ・アルスターに」 「なっ、違っ!」 「隠すなよ、見惚れてたくせに」 「そりゃっ………」 確かに可愛いとは思ったけど。 口ごもってしまうキラに、トールはにやにやと笑う。いいかげんにしなさいよ、とミリアリアが助け舟を出してくれてやっと拘束を逃れた。 「フレイって、ミリィと同じサークルなんだっけ?」 「そう。私たちの一級下で、お嬢様。けっこうモテるみたいよ」 「ほー、それは敵が多そうだなキラ」 「だ、だからそんなんじゃないって言ってるだろ!」 全く聞く耳をもってくれない友人に、真っ赤な顔でキラは叫ぶ。 やっと来たエレカに逃げるように乗り込み、トールが悪かったと謝るまでキラは憮然とし続けたのであった。 研究資料をまとめていた女性は、言葉もなくリビングに下りてきた息子に笑みを浮かべた。真面目な気質が窺える表情は、いつものようにあまり動かない。不機嫌だというわけではなく、これが彼の自然な表情なのだ。 「どうしたのアスラン?そろそろ食事にしましょうか」 「父上は…」 「今日も評議会よ。大変みたいね」 「………この情勢では」 「えぇ」 立ち上がって紅茶を入れるためにキッチンに入る。 いつもの位置にアスランが腰かけ、母レノアは柔らかな声で話しはじめた。 「そういえばね、今度プラントでもキャベツの育成に成功したのよ」 「キャベツ……また?」 「そう、また」 月にいた頃も散々研究していただろうに、と息子は小さく溜め息を吐く。その様子を楽しそうに眺めながら、レノアはお湯を注いだ。 「もう引き取ってくれる家はないのに……」 「そうね、カリダがいてくれればお裾分けもできるんだけど」 「………………」 黙ってしまったアスランにレノアは何も言わず、ティーポットを持ってソファーの方へ移動する。 コペルニクスでの様々な思い出を振り返っているのか、アスランの翡翠の瞳は遠くを見つめて揺れていた。 確かにあそこでの暮らしはとても楽しいものだった。 ナチュラルだけれど、とても朗らかで親しく接してくれていたカリダ。 息子のアスランと兄弟のように遊んでくれた、キラ。 「あのまま月にいられたらよかったんだけど」 「キラがプラントに来てくれればいいのに」 「ふふ、そうね」 ぶすっと珍しく愚痴をこぼす息子に、レノアは穏やかに微笑む。 こうしてアスランが本音を漏らすというのは、とても珍しいことだから。優秀で、とてもしっかりとした息子。だからこそ不安に思う部分もあるわけで。 それが剥がれ落ちる瞬間が、たまにある。 「でも本当に、どうなっていくんだろう……プラントと地球は」 「そうね」 プラント側は理事国に対して、交渉の回答が得られないのなら資源の地球への輸出を停止する、と明示している。そのためにいま理事国とプラントとの緊張は、より一層激しいものへとなっていた。 「お父さんはすぐに頭に血が上ってしまうから、それが心配だわ」 「え?」 「本当は良いひとなんだけれど。理想がとても高いでしょう?そのために熱くなってしまうことが多々あるのよね」 「はあ………」 厳格なイメージしかないアスランにとって、レノアの語る父はとても新鮮に感じられた。けれどその言葉の端々に、父に対する愛情が感じられて胸の内が温かくなる。 父も母には優しい気がするし。 「残念なことよね、この情勢は。私たちはどこも変わらない、同じひとなのに」 「ひと……」 「ただ感じることや、思うこと、願いや望むものが違うだけなのよ。それはナチュラルだとかコーディネイターだとか関係なく、誰だって違うものでしょ?」 「……確かに」 「それが衝突して、いつの間にか大きくなって争いになるだけ。だからアスラン、見失ってしまってはダメよ。みんな同じ、ひとなの」 「はい」 素直にこくん、と頷く息子の髪を撫でる。自分譲りの青い髪を愛しそうに梳いて、紅茶をティーカップに注ぎ始める。その光景を何とはなしに眺めていたアスランが、ぽつりと呟いた。 「またユニウス7に?」 「そう。ごめんなさいね、長いこと留守にしてしまって」 「いえ」 「たくさんキャベツ持って帰ってくるから、覚悟しててね」 「ははは………」 笑えないレノアの冗談を、引き攣った顔でアスランは受け止めている。 その様子を見つめながらレノアは笑う。穏やかな会話を続けながら、またふとアスランは遠くへ思いを馳せた。 やはりここにカリダやキラがいてくれたらいいのに、と。 母が帰ってきたときに、またたくさん持ってきたのねぇと笑うおばさん。今日はロールキャベツだねアスラン、と大きな目を瞬かせる親友。 暖かなその空間が、レノアだけでなく自分も好きだったのだ。 きっとまた会える。 例えいまは離れた場所であったとしても、同じこの世界に生きているのだから。 また四人であの頃と同じ日々を過ごすことが、いつかできる。 そう思いながらアスランは、珍しく笑顔で母の出発を見送った。 <ハロ、ハロ!> 「ラクス様、お疲れではございませんか?」 「いいえ。心配してくださって、ありがとうございます」 <オマエモナ!> 「それでは、次の会場まで移動しますので。車の中で少しお休み下さい」 「はい」 乗り慣れたシートに背を預け、車が発進する振動に瞳を閉じる。 今日はよく晴れている、と空を見上げて思った。もっともプラントの天気は人工的なもので、全て管理されているのだから当然だろう。今日は晴れの日なのだ。 「次は慰問コンサートですよ、ピンクちゃん」 <ミトメタクナイ!> 「まあ、せっかく来てくださった皆さんに失礼ですわ。ちゃんと歌を聴いていただきましょう?」 <アカンデー> 「仕方ありませんわね、ピンクちゃんはお留守番をしますか?」 <ハロ!ラクスゲンキカ!> 「はい、私は元気ですわ。まだお仕事もできますもの、ピンクちゃんも頑張りましょう?」 <オマエモナ!> 「ふふ」 ピンク色のマイクロユニットを相手に、歌姫とプラント市民から愛されている少女は会話を繰り広げている。傍から見ると異様な光景だが、彼女だと自然に見えてしまうのだから不思議だ。 その姿を見た婚約者が心の中で、ピンクの妖精という呼び名はあながち嘘でもないな、と思ったことがあるなど彼女は知らない。 「この歌で、皆さんが少しでも元気になってくださるといいのですけれど……」 小さく呟かれた言葉に、手の中でハロがぱたぱたと揺れる。 その様子に柔らかく笑みを浮かべて、ラクスは外へ視線を移した。 ずっと平行線をたどったままのプラントと理事国。 擦れ違いが軋轢を生み、すでに溝は修復ができないところまで深まっているように思える。 父であるシーゲルはそれに備えて、プラントのユニウス市にある7区から10区を穀物生産プラントに改装させていた。 しかしプラントから益を得ている理事国が、自給自足が可能となってしまうような政策を認めるはずもなく、実力を行使してもこれを排除すると勧告してきたのである。 威嚇行動に出た理事国に対し、プラントは軍事組織「ZAFT」とMS「ジン」の存在を初めて公開し実戦投入させた。圧倒的な数の差があったにも関わらず、MS部隊はモビルアーマー部隊を殲滅。理事国の宇宙軍を排除することに成功した。 「このまま、世界はどうなっていくのでしょうか……」 <ハロ、ハロ> 「皆さんにとって、良い方向へ行くといいですわね」 <マイド!> 父は穏健派であり、あくまで対話の姿勢を崩そうとはしていないが、それもだんだんと難しい状況になってきているのをラクスは肌で感じていた。 どんどん世界は混迷の道を歩み始めている。そんないま、自分には何ができるだろうか。 「この世界に生きているからには……誰にでも、そこにいる権利があるはずですのに」 <ハロ?> この世界に生まれ生きているからには 世界はあなたのもので あなたは世界のもの そう教えてくれた母の優しい声が甦る。 自分も、この情勢と戦っている父も。婚約者であるアスランも、そのご両親も。そしてプラントに生きる人々も、もちろん地球に生きる人々も。その権利は誰にだってある。 この世界を歩む権利があり、幸せになる権利があるのだ。 けれど世界は自分だけのものではなく、むしろ自分が世界のために生きる必要もあるということ。その両方なくして、ひとは本当の意味で幸福になどなれないのかもしれないということ。 「自分ばかりが幸せになっても、世界が争ったままでは哀しいですもの」 <オマエモナ!> 「少しでも良い方向へ世界が向かうために、そのお手伝いをしましょう?」 <ハロ!> 元気良く返事をするハロに柔らかな笑みを浮かべ、ラクスは瞳を伏せた。長い睫毛に隠された宝石のような青い瞳は、深い色を宿していて彼女が何を考えているかを推し量るのは難しそうである。 このような落ち着いていて、大人びた表情を持っていることを多くのプラント市民は知らない。 「ラクス様、到着しました」 「ありがとうございます」 「会場にはもうファンが詰め掛けているようですよ」 「まぁ、嬉しいですわ」 本当に嬉しそうに、ふわりと微笑むピンクの妖精。 その呼び名に違わずどこか浮世離れした雰囲気を身に纏いながら、ラクスは車から出て桃色の髪を揺らした。自分を待っていてくれるファンへ、愛くるしい笑みを浮かべて手を振る。 「それではまいりましょうか、ピンクちゃん」 <ハロ!> 自分にできること、それは平和への願いを伝えること。 小さな小さな祈りでも、もしかしたら誰かが受けとめてくれるかもしれない。 同じ道を歩もうとしてくれるかもしれない。 平和な世界を望むのは、皆同じはずなのだから。 そのために自分は、歌姫という場所で想いを響かせよう。 いつか大切なひとと、穏やかに寄り添う未来のために。 「シモンズ主任、代表がいらしているとのことですが」 「えぇ?」 同僚の女性から声をかけられ、シモンズと呼ばれた女性はその美しい顔を驚きに彩る。それもそうだろう、我が国の最高権力者がこんな所まで来ていると言われたのだ。 慌ててインカムを外し、いまの作業を中断する。信頼している部下にこの辺りの整理を頼んで。 「アスカ、ちょっとこのデータの整理お願い」 「分かりました。あら、すごい量」 「ごめんなさいね、大丈夫かしら?」 「えぇ。夫も引き摺ってきますから」 「ふふ、心強いわ。よろしくね」 研究室を出て早足で進んでいくと、格納庫でまだ試験段階のMSを見上げている男性を見つけた。オーブの獅子と呼ばれている、ウズミ・ナラ・アスハだ。 物憂げな代表に歩み寄っていくと、こちらの足音に気付いてウズミが振り返る。 いまの情勢を慮ってか、その表情はいつにも増して厳しいものだ。 「どうかなさいましたか、ウズミ様」 「いや。技術開発の方はどうなっておる?」 「まだまだですね。ザフトが先日投入した、MSについて色々と試してはいますが、やはり……」 「ナチュラルには扱えぬ、過ぎたものか」 「現段階では」 それまでは宇宙での戦闘はモビルアーマーが主な兵器だった。 しかしザフトによって公開された新たな力、MSは世界に大きな衝撃を与えたのである。それはこのオーブも例外ではなく、またどんどん緊張の高まる状況に誰もが憂慮を示していた。 「このまま、開戦するとお思いですか?ウズミ様は」 「そうでないに越した事はない。だが、最悪の事態も想定しておかなければならぬ」 「………やはりオーブは」 「プラントと理事国が戦端を開いたとしても、中立の立場を貫く。それがオーブの理念だ」 「えぇ。そのために、私たちも昼夜働いているのですから」 「すまぬな………。いくら国のためとはいえ、兵器を造らせることになって」 「いいえ、それはウズミ様こそ」 国を愛し、民を愛しているからこそ、望まない政策にも取り組まなければならない。政治の世界は自分には分からないことだが、ここ数年の彼の顔の翳りを見ればなんとなく想像がついた。 だがウズミがこうして骨を砕いてくれているから、エリカたちもそれに応えようという気持になる。それはオーブに暮らす民のほとんどが、同じ気持だろう。 「お父様!」 「カガリ、このような場所にどうした」 「新しいMSの開発が進んでいると聞いて、いてもたってもいられなくなって……」 「カガリ様ったら、相変わらず好奇心旺盛ですわね」 くすくすと笑みを漏らすと、駆け足でやってきた少女は照れくさそうに頬を掻いた。 黄金の髪を揺らす娘に、ウズミは瞳を細める。 「カガリ、これから世界はより難しいものへと変化するだろう」 「はい」 「覚えておきなさい、我らオーブは他国を侵略せず他国の侵略を許さず、そして他国の争いに介入しない。それは集団で生活する上で最も大切で、また基本的な理念だ」 「………?」 「いまは分からずともよい、だがそれを決して忘れないようにしなさい」 「はい」 言葉の意味が分からないながらも、大切なことを言われていると分かっているカガリは真剣に頷く。一生懸命な様子の愛娘に、ウズミは親であれば誰もが浮かべるであろう笑みを浮かべ、大きな手でその自分よりも小さな頭を撫でた。 できるのであれば、争いからは無縁な世界でこの子には幸せになってもらいたい。 しかし自分はひとつの国の元首であり、カガリはそのひとり娘だ。 いずれは自分の志を継いで国を守っていかなければならない。そしてまた、その道を自ら選ぶのだろうこの小さな少女は。 真っ直ぐに向けられる眼差しは、国を想う気持ちに溢れているのだから。 「どうして兵器なんてあるんだろう……」 「そうですね。カガリ様はこういったものを造るのは、反対ですか?」 「い、いや。いま何かがあったときに、オーブの国としての意見を貫くには必要だと思う。思うけど、やっぱり………」 「難しいものだ。力というものは」 「お父様……」 誤った振るい方をすれば、たくさんの悲劇を生み出す力。 だが守るためにはやはり力が必要で。 そのジレンマをウズミとて長いこと抱えていた。兵器が争いを生むのか、それとも争いが兵器を生むのか。長い歴史の中で繰り返されてきた問いの答えは、いまだ見えない。 争いがなければ兵器が必要なはずもなく、兵器がなければひとは争わずに済むのだろうか? 「姫様!こんな所にいらしたのですか!」 「マ、マーナ」 「さぁ、今日は作法の訓練の日です。まったくどこへ逃げたのかと思えば」 ぶつぶつと文句を呟くカガリの乳母マーナ。 その様子にエリカとウズミは柔らかい表情で迎えた。 「すまぬな、馬鹿娘が手を焼かせて」 「いいえいいえ!障害がある方が燃えるというものです」 「そんなことで燃えなくていい!」 「ほら姫様、行きますよ」 「離せえー!」 ぎゃあぎゃあと賑やかに騒ぎながら、マーナはカガリの腕をむんずと掴んで出て行ってしまう。その有無をいわせない強さは、長年あのカガリを世話してきたことで培ってきたものなのだろうか。 「ふふ、元気で良いことですわね」 「元気すぎるというのも困りものだがな。仕事の邪魔をしてすまなかった」 「いえ、いつでもいらしてください。カガリ様もいりびたりそうですし」 「………迷惑をかける」 疲れたような溜め息を吐くと、楽しそうにエリカが笑った。 いまだこうして穏やかな場所であるオーブ。 それらを守るために、やはりいまの情勢では力が必要なのだとウズミは再度思う。 どんなに理想を掲げようとも、大きな力に屈してしまえば意味がない。 この温かく大切な場所を守るために、自分は全てを捧げよう。それがきっと、いつか道を切り開く。 そしてその想いを受け継いでくれる者たちが、この国にはたくさんいるのだから。 風のように駆け抜け、無邪気に走り回る娘が頭をよぎり、オーブの獅子は優しく笑った。 帰ってきて、自室で宿題をしていた少年はリビングから聞こえてきた妹の声にペンを置いた。何だろう?と不思議そうに赤い瞳を瞬かせ、立ち上がる。 ドアを開けると、可愛らしく髪をおさげに結った少女が不満そうにソファーに陣取っていた。 「マユ、どうしたんだよ?」 「ねえお兄ちゃん、お母さんとお父さんまだ帰ってこないの?」 「あ、もうこんな時間か。最近忙しいみたいだから」 「つまんなーい」 ぷくうと頬を膨らませる妹に、シンは苦笑してソファーの背もたれからその頬を突っつく。 「そんな顔してると、不細工になるぞ」 「あ、お兄ちゃんひどい!」 「ははっ」 すると机に何やら折り紙が広げられていることに気付き、シンは首を傾げた。マユがそれで遊ぶにしては、ちょっと珍しい。 「マユ、何してたんだ?」 「あ、これ?あのねウチのクラスの子が、今度プラントにお引越しするんだって」 「へえ」 「だからお別れ会やるの。そのときのプレゼント」 可愛いでしょ、とプレゼント作成の合間に折ったのかペンギンの折り紙を差し出してきた。折り紙なんて久しぶりだな、とシンはそれを受け取りながら思う。もう折り鶴のやり方も忘れたかもしれない。 「プラントに行くってことは、その子コーディネイター?」 「そう。なんかどんどんプラントに行っちゃうよね、なんでだろ」 「やっぱ、戦争が始まるからじゃないの?」 「えー、本当に始まるのかなぁ」 「さぁ」 それはどこか遠い国の出来事で、自分たちにとってさして重要なものでもない。 オーブは何があろうと中立を保つだろうと両親は言っていたから、この国が戦火に巻き込まれることはないのだろう。 そりゃ、戦争っていうのは嫌なものだけど。 「でもそのプラントと理事国の関係がよくなくて、危なっかしいから父さんたちモルゲンレーテに働き詰めなんだろ?」 「うーん、そう考えると戦争にはなってほしくないね」 「お前なぁ、世界の心配よりも父さんたちかよ」 「だってあんまり実感ないんだもん」 「それは俺も」 恐いな、と思う。 宇宙で起きた戦闘のニュースだって、あの中でいったいどれだけの命が失われたのだろうとか。 毎日起きているブルーコスモスのテロだとか。 「オーブは平和の国だから、私たちは安心だし」 「だな。あ、電話」 「私出る!」 たたた、と電話の方へ走る妹に表情を綻ばせシンは思う。 どんなに外の世界が争いを続けたとしても、自分は両親とマユがいてくれればそれでいい。 このささやかな、けれども決して失いたくない幸せがあればいい。 「お兄ちゃん、お母さんいま出るって」 「じゃあ三十分ぐらいで帰ってくるかな」 「わ!じゃあ早くこれ仕上げちゃわなきゃ」 「手伝おうか?」 「ううん、お兄ちゃん折り紙できなそうだし」 「う………」 最もな意見に言葉を詰まらせ、シンはしぶしぶ自室へと戻る。部屋へ戻ってから、宿題をやりかけだったことを思い出し、黒い髪を掻きながら机に向かった。 早くこんなの片付けて、ゆっくり夕飯を食べよう。 それから皆でお菓子を食べて、両親からモルゲンレーテの様子を聞いてみたり、あと今日あったことを聞いてもらったりしよう。 そう思うと、ペンを握る手に力がこもり、シンはテキストを開く。 ふと外を眺めると燃えるような夕焼けで。 この空のどこかでは誰かが苦しんでいるのかもしれなくて。 そのことにわずかに戸惑いながらも、いまある幸せを噛み締める。 漠然と遠いこの空の先にいる誰かも、こんなふうに穏やかな日を過ごせていればいいのにと思った。 「じゃあキラ、これ教授から」 「ありがとうサイ」 また追加のディスクか、と溜め息と共にキラは受け取る。 それに苦笑をもらしてサイは頑張れ、と大人っぽい表情で励ましてくれた。肩を落とす自分を、遠巻きに眺めているのはカズイだ。自分にいらぬ火の粉がとんでくるのが嫌なのか、ただ静観しているだけのようだが。 「教授の手伝いか、よくやるなキラも」 「好きでやってるわけじゃないよ………」 「でも嫌いでもないんでしょ?」 「まあね」 嫌いだったらほいほいと引き受けはしない。 だが限度というものがあるだろう、あまりにも大量にデータを押し付けられている気がするのだ。 「ふう、今日はもう戻るよ。打ち合わせはこれで終わりだよね?」 「あぁ。お疲れさん」 「またなキラ」 皆の元気な声を背に受け、キラは外へ出る。 思ったより早く話し合いも終わり、まだ空は夕暮れに差し掛かったばかりだった。 「ふう、帰ったら課題と教授の手伝いか」 <トリイ> 「うん、帰ろう」 ひとりで夕焼けの街を歩く。 人工の空だと分かってはいても、やっぱり綺麗だと思った。 この造られた空の向こうには、真空の宇宙が広がっているのだろう。 そしてその先のどこかに、親友がいる。 遠いけれど、決していけない場所ではないはずなのに。 聞こえてくるニュースは、宇宙へ飛び出すことを躊躇わせるものばかりだ。 でもそのうちそれも落ち着いて、いつかまた気軽に遊びに行けるようになるのだろう。 そのとき彼はどんな顔で迎えてくれるのだろうか。 照れているのを隠すように、不機嫌な表情かもしれない。珍しく笑顔を向けてくれるかもしれない。 おばさんにも会えるといい。母もきっと喜ぶから。 そしてまた皆でロールキャベツを食べよう。 この空はいつでもつながっているのだから。 遠い、けれども必ず辿り着けるはずの場所。 そこへ思いを馳せ、ひとは歩いていく。 |