++ 体調不良 ++ 










シホ・ハーネンフースはいま人生最大の危機を迎えようとしていた。

鼻と鼻がぶつかりそうな距離にまで近づいた端整な顔は見慣れた不機嫌な色。
アイスブルーの瞳にはかすかな苛立ちが灯っており、申し訳なさに涙が出そうになる。
触れている額と額。こちらの前髪を押し上げている骨ばった手。
さらりと流れる銀髪が頬をかすめていくような気がして。

このまま卒倒するのではないか、と思った。






平和への道を模索し続ける世界は、少しずつ穏やかな日々を取り戻していた。
だからといって軍人の仕事が減るわけでもなく、思い出したようにちょっとした諍いが起こることもある。
はるかな過去から国家間の軋轢は生じていたのだ。それがいまやナチュラルとコーディネイターという大きな隔たりが生まれ、さらにはデスティニープランを支持する国とそうでない国という確執まで持つようになってしまった。
デスティニープラン否定を掲げる代表者ラクス・クラインそしてカガリ・ユラ・アスハ。彼女たちは自国と思想を異にする国に対して、強硬な姿勢をとることはない。何を選び理想とするかはそれぞれの自由だ、というのがプラントやオーブそれに連なる国々の意見である。
しかし同盟国の全てが穏健な考え方というわけもなく、理念の違いから国境紛争が起こることは珍しくなかった。悲しいかな、それが人の築き上げてきた歴史である。

「シホ、先日のテロ組織についての報告書は上がっているか」
「はい。こちらが」
「ご苦労」
「テロ組織の者はオーブに連行される、という話を聞きましたが」
「あぁ。連中はプラントが独自に裁くのではなく、世界法廷にかけられる。恐らく法廷は地球のどこかで開かれるだろうから、一番中立的な位置に近くなおかつ厳重な警備を期待できるオーブに護送が決定した」
「世界法廷、ですか」

複数の国が関係する犯罪や問題を扱うのが世界法廷だ。
今回のテロ未遂について、首謀者たちがデスティニープラン推奨国の出身であることは調べがついている。
国の意向によるものなのか彼らが勝手に動いただけなのか。それらも含めてプラントは調査したいところだが、そこに相手国からの待ったがかかったのである。それはそうだろう、下手をすれば表立って非難の理由を作ってしまうことになる。テロ国家などと世界に認識されたくはあるまい。
表向きは自国の民の処罰は責任を持ってこちらでする、ということだったが。
そのまま証拠を握り潰されうやむやにされては困る。よってプラントはこれらの問題を中立的な位置に立って判断する場である世界法廷に預けることにした。

世界法廷は各国から選び出された者と、どの国にも影響されない中立の立場をとる者が集まる。
戦後処理もかねた裁判が何度もここで行われてきた。

「…きちんと納得のいく判決がおりるといいのですが」
「それなりの刑罰は課されるだろう。今回の件に関しては証拠も揃っている」

シホが提出した報告書を確認したイザークは満足げに頷く。
これならば問題ないと太鼓判を押され、ほっと肩の力を抜いて敬礼した。
裁判に提出される書類としては些細なものだが、大事な証拠のひとつである。
公正な審判がくだされることを祈ろう、とシホは息をついた。

「それでは隊長、私はこれで失礼します」
「あぁ。…確かこの後は仕事はなかったはずだが」
「あ、はい。久しぶりに射撃訓練に行こうかと思っています。最近は非常事態が連続していましたので、そちらが疎かになってしまって」
「良い心がけだ。しかし、休むことも必要な義務だ」
「はい」
「………あまり顔色がよくない。今日はこのまま帰って休め」
「しかし…」

小さな雑務は残っており、それを片付けてから業務を終えようと思っていたのである。
長らく訓練所にも足を運んでいないため、どうにも落ち着かない。身体が鈍っている気がする。
実戦は何度も任務の中であったのだからそんなはずはないのだが。
しかしシホにとって基礎を振り返る訓練というのはとても大事なものだった。

迷う素振りを見せる部下に、イザークはやや眉を寄せる。
そうした表情の変化も美しい、とシホはぼんやり思った。

「自覚がないのかお前は」
「え?」

がたん、と席を立ったイザークはぐるりとデスクを回ってシホの目の前にやって来る。
思考が追いつかずそれを見守っていると、上司の手が伸びてきた。
そしてさらりと前髪をかきあげられた次の瞬間には迫る端整な顔。
反射でぎゅ、と目を瞑ってしまうと額にこつんと何かがぶつかったのが分かった。

「……?」

恐る恐る瞼を押し上げると、イザークの顔があまりにも近くにあって。
口から悲鳴だけでなく心臓までも飛び出してしまいそうになった。

「な、え、た、隊長!?」
「……やはり熱があるな」
「え」
「体調管理も仕事のうちだぞ、シホ・ハーネンフース」

額と額をぶつけたままの距離で囁かれる。
いつも通り厳しい声なのだが、吐息すらも肌に感じるいまシホにとっては熱を帯びた甘さしか感じられず目が回りそうだった。だって隊長の指が、顔が。

シホはイザーク・ジュールを尊敬し慕っている。
同じ赤をまとっていた頃から彼の真摯な姿勢に共感を覚え、その背を追ってきた。
クルーゼ隊に配属され、そしてその後もイザークの隊に入ることができたことは幸運以外の何物でもない。
他者に厳しいイメージが強いようだが、それ以上に彼は己に厳しい。
正しいと思うことを貫く強さと、間違いを認めて謝罪することができる潔さも持っている。
上司としてこれ以上に敬える相手もいなかろう、と心の底から思っていた。

ディアッカがそれを聞けば、物好きだよなーといらない感想をくれるだろうが。

というわけで、誰よりも慕う相手がこんな近距離にいるのだ。
シホの頭が処理能力の限界を訴えても仕方のないことだろう。むしろよく立っているぐらいだ。

「あ、の…えっと、し、しつれいしま」
「休めと言っているだろう」
「で、ですが、もろもろの雑務が…!」
「他のものに回せ。お前でないとできない仕事ではないだろう」

まさかイザークの口からそんな言葉が出るとは、と目を丸くする。
ようやく顔を離してくれた上司は眉間に皺を寄せた状態でこちらを睨みつける。

「それぐらい、いまのお前の顔色は悪い。倒れられる方が問題だ」
「……そう、でしょうか」

あまり自覚はないのだが、と頬に手をあてた。
まったく自覚のないらしいシホを見て取ったイザークは溜め息を吐くと一歩を踏み出す。
また近づかれてはたまらない、と思わずシホは後退してしまった。

「逃げるな」
「そ、そんな滅相もない…!あの、隊長にもし移ってしまったら」
「移されるほど体力が低下してはいない」

ばっさりと切り捨てイザークは素早くこちらの腕をとる。
シホが抵抗を試みる間もなく、そのまま軽々と抱え上げられてしまった。

「え、は!?ええええええええ!!?」
「確かにある意味で元気そうではあるな。部屋に運ぶから大人しくしていろ」
「だ、大丈夫です隊長!自分で、自分で歩けますから!」
「逃げられては困る。お前が休むところまで見守らせてもらうぞ」
「ちゃんと休みますからああぁぁぁぁぁ」

シホの悲痛な悲鳴がこだまし、たまたま廊下を通りかかった隊員たちはどことなく微笑ましそうな表情を浮かべたという。残念なことにシホの秘めた想いなど、この隊の仲間たちにとっては周知の事実である。
イザークだってシホのことを認めており、実は彼女に対してけっこう甘い。それは信頼の表れなのだろうが、隊員たちからすればお似合いの二人ではないかというところだ。どうにも奥手なシホと、鈍感というレベルではないイザークと。

まるで学生のようなもどかしい関係を皆で見守っているのであった。
ディアッカだけは、疲れた表情を浮かべるのみだったが。






本当に部屋にまで連行されたシホはベッドに寝かしつけられていた。
軽い食事を持ってくる、というイザークにそこまでしていただかなくてもと口を挟もうとしたのだが。

「俺が戻るまでに着替えを済ませておけ。もし終わっていなかった場合は俺が直々に」
「わー!!着替えます、きちんと着替えてベッドに入ってます!」
「よし」

というやり取りがあり、そのままなしくずしにシホは寝床に入る羽目になった。
イザークが運んできた食事は消化に良いものばかりであり、身体に負担をかけないためだという説明を受けて納得する。確かに胃の調子があまり良くはなかったのだ。特別悪いわけでもなかったが、今晩の食事は胃に優しいものにしようと考えていたことを思い出す。
食事を終えれば薬まで飲ませてもらい、さらには水分補給用にとドリンクも枕元に置かれた。
こんなにもかいがいしく世話を焼いてもらってシホは恐縮するばかりである。

「……ジュール隊長」
「何だ」
「あの…申し訳ありません、お手を煩わせまして」
「そう思うのなら早く回復することだ」
「はい」
「寝ろ。いまのお前に必要なのは休養だからな」

そっと瞼の上に手が置かれる。
イザークの手がひんやりして感じられるのは、やはり自分に熱があるからなのだろう。

「……たいちょう」
「ん?」
「………ありがとう、ございます」

眠る態勢に入った途端急激に身体が重くなる。確かに体調が悪かったらしい。
任務を優先することに慣れた身体は職務中だと大抵の不調はねじ伏せてしまう。
あのまま仕事を続けていたら本当に倒れていたのかもしれない、と分かった。

本人よりも先に気づいて、こうして処置を施してくれる。
改めて自分は上司に恵まれているんだな、と実感してシホは淡く微笑んだ。

「たいちょうの、おやくに…たてるように…げんきに……」

疲労とだるさと眠気が同時に襲ってきて、シホの意識は沈んでいく。
最後まで伝えたいことを音にできたかは分からない。

それでも遮断された視界の向こうで、かすかに彼が笑う気配がしたようだったから。

きっと、伝わったのだろう。





寝息を立て始めた部下を見下ろし、イザークはやれやれと息をついた。
ひとのことを言えはしないが彼女はなかなか頑固である。
仕事に対する姿勢は好ましいと思っているし、勤勉なシホのおかげで何度助けられたか分からない。
だが彼女は自分の身を省みないところがあり、そしてそれを自覚していない。

確かに体調不良をおしてでも働かなければならないときはある。
しかし彼女はどんなときも全力であり、下手をすれば突然ガス欠になりかねない。
それでは困るのだ。シホはイザークにとって頼りにできる数少ない人間なのだから。

「…ゆっくり休めよ」

さらりと流れる黒髪を撫でて、イザークは部屋の明かりを消して部屋を出た。
しばらくしたらまた様子を確認に来よう。高熱というほどでもないから、問題はないだろうが。

「あれ?こんなとこで何してんだよイザーク」
「ディアッカ。…そうか、お前はこれからか」
「そ。あっという間に非番って終わるよなぁ」
「休んだのならリフレッシュしているだろう。馬車馬のように働け」
「いきなり死刑宣告かよ…」
「シホが体調不良で休んでいる。急ぎの仕事は片づけてあるらしいが、それ以外の雑務は残っているはずだ。お前に任せる」
「へいへい。あの子が体調不良なんて珍しいな」
「ようやく非常事態が落ち着いたからな。気が緩んだんだろう」
「たるんどる、とか言わないわけ?」

からかうようなディアッカの言葉にイザークは鼻を鳴らして笑った。

「十分に働いている者に、なぜそんなことを言う必要がある」
「……うわー………お前さ」
「?何だ」
「ホント、あの子にはデレデレだよな」
「は?」
「あーあ、可哀想。素で爆弾落とすこいつに惚れてるとか、マジ可哀想」
「おい何の話だ」












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